富士見、ふじみ野市ピアノ教室 講師紹介

音感のいい子〜幼少の頃 

泣き虫で、すぐ泣くのが面白いのか、よくいじられていました。

かなり大人になるまで、いじめられていたと思っていました。

ピアノは、4歳からのヤマハ音楽教室に、3歳10か月で入れられました。

7月生まれなので、あと2か月だからと親がサバ読んで入れたようです。

親は本人がやりたいと希望したからと言っていましたが、本人は記憶にありません。

音感は良かったようで、付き添って教室に来ていた母が、他の方とおしゃべりしていても、聴いた音をちゃんと5線の上にマグネットの音符を置いていて、ほとんど間違えたことが無かったと言っていました。

泣き虫のくせに独立心が強く、何でも自分でやると言って、段違いにボタンを留めたり、縦結びにリボンを結んだりして着ていますと、幼稚園の連絡帳に書かれていました。

 

小学生〜ピアノの練習

やはり低学年のうちは泣き虫で、成績もだいたい3、音楽と体育だけ4でした。

3年生の担任(女性)と4年生の担任(男性)になぜか可愛がられ、何かと発言の機会を与えて頂いたり、前に立つ機会を設けて下さり、目立ちたくない自分としては、ストレスを感じながら何とかこなしていくうちに、少しずつ成績が上がってきました。

段々覚醒してきた感じです。

高学年の頃は、成績もほとんど5と4で、選抜の体育の各種試合や、音楽会の伴奏等にも出ていました。

6年生の担任(女性)が生徒を生き生きとさせる名教師だったので、積極的に物事に取り組めるようにして頂きました。

ピアノは、音楽教室を終了して、そのままその先生に個人レッスンを受けていました。

父は独学でピアノを弾く人でしたが、母は全く音楽が解らない人でしたので、父の言いつけに従って私に練習させる時に1曲10回ずつ、弾けたら次々と進めるので、2年生になる頃にはバイエルが終わり、苦労しながらエリーゼのために等弾いていました。

その頃はスパルタ教育が盛んで、練習しないと、よくぶたれたりしていました。

その後、先生が幼稚園会場をお辞めになったのを機に、近所のピアノ教室に移りましたが、先生が作曲家で、留学される為に教室を閉められて、4年生の中頃にヴァイオリンとピアノを教えている先生の所に通うようになりました。

が、6年生になる前に、先生が学校の校長先生になる事になり、やはり教室を閉めたのですが、ヴァイオリン1人とピアノ2人だけは継続したいと声を掛けて下さって、学校が落ち着くまでの半年位、代講で武蔵野音大のピアノ科の学生さんが自宅にレッスンに来ていました。

小学校を卒業するころには、ツェルニー30を終わり、40の後半あたり、ショパンのワルツ等を弾いていました。

 

中学生〜音楽か、体育か

部活でスポーツをしたかったのですが、指や手首に問題が起きるものは両親とピアノの先生から禁止されていたので、陸上部しか選択の余地が有りませんでした(プールが学校に無かったので水泳部も無かった)。

成績も常にクラスで10番以内で、問題ありませんでした。

夏の暑い日に走るのが嫌で、よくサボっていましたが、一度だけ、何かの間違いで県体に出たことが有ります。

体育も好きで、成績も常に9か10(10段階だった)だったので、音楽学校に行こうか体育学校に行こうか、本人は真剣に考えていましたが、両親とピアノの先生は高校から音楽学校を受けさせようと決めていたようです。

普通ならここで音大の先生に就けるところですが、両親が素人で先生に頼り切り、先生もヴァイオリンの生徒を芸大に入れた経験が有ったため(先生はヴァイオリン専攻です)大丈夫と思われたのか、そのままレッスンをつづけ、芸高と東京音大付属高校と県立高校を受けました。

結果、滑り止めに受けた東京音大付属高校だけ合格となりました。

ピアノは学校でも一番上手と言われ、中二の時、体操部の試合が通っていた中学校が会場になり、床運動の伴奏を指名されてしたことが有りました。

授業がサボれて得した気分になったことを覚えています。

ツェルニーは40を終わり、50を弾いていましたが、表現に乏しく、ピラピラと指先ばかりで弾いていた頃でした。

 

東京音大付属高校

取り敢えず東京音大付属高校に入学しましたが、何の伝手も無く入ったため、副科ばかり受け持つ若い先生に割り当てられ、学校の決まりだからとバッハインベンションとツェルニー40に戻され、試験曲も表面的な指導でパラパラと弾いて酷い点をもらい、練習に気が入らなくなりました。

芸大に入れたい両親と元の先生は、今更ながら、何人かの芸大の先生の所に私を連れていきましたが、やる気も無くピラピラと表面的に弾く私を生徒にしてくれる先生はいませんでした。

入学してから仲良くなった友人が、入ったころはツェルニー30をまだ終えてなく、それこそインベンション真っ盛りだったのに、試験で素晴らしい点を採ったり、スケールアルペジオ試験に早々と合格していくのを見て、先生を紹介して貰いたいとお願いしてみました。

友人の口利きで一度聴いて下さる事になり、勝手に弾いていたモシュコフスキーの練習曲と黒鍵のエチュードを持って行きました。

演奏の後少しレッスンの様子も聴いて下さり、結果は、「仕方ないから見てあげるけど、タッチは全て直します。」でした。

高2から先生をかわり、1学期の間は、ドレミファソだけしか弾いてなかったのに、9月の前期実技試験では、1年生の時とは段違いの点を貰い、自分で驚いたのをよく覚えています。その先生に出会ったことで、もう他の学校に行くなんて考えられなくなり、両親を説得しました。

付属高校・大学とずっと先生に指示し、今でも年賀状等の行き来をさせてもらっています。

先生にあの時なぜ採って下さったのかと質問したら、「紹介してくれた友人達が逆立ちしても弾けない曲を弾いているのに、全然歌えない演奏だったから、歌い方を教えなくてはと強く思ったから」と答えてくれました。

大学1年の時に友人(マリンバ専攻)の紹介でピアノの先生のアルバイトをし、大学2年の時に自宅でピアノ教室を始めました。

大学4年の時、教室に通ってきていた生徒(中学の後輩で、保育科を専攻)の自宅に頼まれて出張教室を開設しました。

 

社会人 独身

大学2年の時に、6歳年上の先輩と子供ができて結婚し、母親になりました。

突然のことだったので、まだ子供を持つということの実感があまりなかったのですが、生まれてきてくれた娘が可愛くて可愛くて、生きていく意味や勇気を沢山感じる日々でした。

学校に行ってる間は母に見てもらいながら、家事の合間を縫い、せっせと練習をし、通学の電車の中で頭の中に音を鳴らして途切れたところを譜面で確認して暗譜していました。

大学を卒業した年、色々あり離婚しました。

大学は卒業単位ギリギリでしたが、4年間で卒業でき、自宅と出張教室の他に、日本屋楽器のピアノ講師として、綾瀬市、中野区の幼稚園会場と江東区のレッスン会場で教えていました。

自宅と友人宅の出張教室、幼稚園会場で50名位の生徒数でした。

 

母親に

大学を卒業して、娘も保育園に入り、シングルマザーとして自宅と出張レッスンに明け暮れていた頃知り合った方と、26歳の時に再婚しました。

出張レッスンは自宅と友人宅の生徒さんが増えていく度に1ヵ所ずつ辞めて、再婚した時は自宅と友人宅のみでレッスンしていました。

再婚後少しして第2子を妊娠したのですが、妊娠検査の時に子宮癌もわかり、妊娠と癌の検診を同時進行する事となりました。

癌の進行の方が早ければ、子供は諦めて下さいと医師から告げられ、それに伴う検査や処置、妊娠検診等の日程が多いことや精神的な負担をかんがえて、友人宅の出張教室は辞めることになりました。

幸い癌の進行は妊娠を妨げるほどで無く、無事に帝王切開で息子を出産し、3ヵ月後に子宮全摘手術を受けました。

自宅教室は、出産時1ヵ月、手術時2ヵ月代講の先生をお願いして乗り切りました。

それから2年半経ち、やっと体調も整い始め、少しは動けるようになって、子供達との時間も作れるようになってきた矢先に、癌が再発し、再手術をしました。

色々な事がなんだかとても不安に思え、仕事も辞めなくてはかななどと考えていた時期でした。

 

子育て

子供は二十歳で産んだ娘が1人と、癌に負けずに産まれてきてくれた息子が1人います。

再手術後、仕事以外は横になりがちな私に代わって、7歳上でもう小学校にあがっていた娘がよく手伝ってくれました。

毎日夕方から夜にかけてレッスンしていたので、自分の子供が練習する場が無く、また二人ともピアノに興味を示さなかったので、自分の子供にはピアノは教えずじまいになってしまいました。

その後、娘が大学の受験の年に樹脂アート(Artresin)に出会い、音のない世界の表現に惹き込まれていきました。

 

頑張り屋の娘

娘は法科を出て、法務部で足元を固め深夜まで働いています。

孫は男の子で、今春小学1年生になりました。

 

泣き虫だった息子

息子は癌と競争して勝って産まれてきてくれた子で、可愛くて有難くて仕方ありませんでした。

娘も弟が可愛くて、よく取り合いをしていました。

子供の頃は母親が二人いる様だったと言っていました。

小さいころから泣き虫で、私の小さいころとそっくりでした。

小学校に上がってもよく泣いてはいじられていましたが、5年生の頃から急に泣かなくなりました。

大人になってから聞いたら、「いつまでも泣いてたって仕方ないから、もう泣かないって決めたんだよ」といっていました。

 

樹脂アートに出会う

30代の後半に出会った樹脂アートを始め、5年掛かると言われた上級指導者資格を2年半で取ったのですが、独立する段になって、絵を描く技術が無い事に困り、デッサン会に入会しました。

40代はピアノの教室は細々と続けながら、樹脂の作品で次々と公募展で入選・入賞を果たし、デッサンの次は図案教室、次はデザイン工房に入会し、個展やグループ展、ギャラリー企画の海外アートフェア出品等の日々でした。

その頃樹脂の生徒さんの発案で、亡き父の会社の建物の一角で、公募展で知り合った作家さんや樹脂の生徒の作品を販売するお店を開くこととなり、日曜のみ開店する「さっかや艸」を、母が亡くなり妹がその土地を相続するまでの6年間開いていました。

 

ピアノ教室が第3の場

お店を開店する少し前に、作品を展示したことのあるギャラリー喫茶のオーナーから、ご病気になられた歌声喫茶の先生の代わりのピアノ弾きの仕事の依頼を受け、色々なジャンルの曲を弾くようになりました。

2年後にオーナーがお店を閉めた後も会員さんの要望で、公民館等に会場を替え、15名ほどで始まった会も、昨年のコロナになる前まで15年間続き、最後は5か所で合計200人の会員数になりました。

けれども歌はコロナにはリスクが高く、残念ながら解散という事になりました。

現在は年に4回、ピアノとマリンバのデュオコンサート≪音聴話(おとぎ話)≫を開催しています。

ピアノの生徒は、何の宣伝もせずに口コミのみでしたが、少しずつ増えていきました。

教室では、基本は個人レッスンですが、前後の時間をうまく調整して、重複した時間に予備練習や楽典ドリル・リズム・ソルフェージュ等を行います。また、催しも色々あり、それを通して生徒同士の仲が良くなったり立ち位置の確認や、居場所設定に一役買っているようです。

家庭でも学校でも無い、第3の場所として機能できればと考えています。